スイス•ツェルマットは、夏期を含み年中ウィンタースポーツが楽しめる人気リゾートです。
(ウェブにはそう書いてあったけれど、実際目の当たりにするまで実は半信半疑でした。)
今の時期、ツェルマットの町の方では涼しい秋の風が吹いているのですが、
最終地点がヨーロッパいち高度の高い、ながーーいケーブルカーを3、40分乗り継ぐと、上に行くにつれてだんだん山々に雪がかかってきて、
てっぺんにつくと、ここは天国、、?と錯覚するような絶景の雪の世界が広がっています。
私たちはスキーを楽しみましたが、雪山を果敢にハイキングしていく人たちも。
ケーブルカーの終点はマッターホルンの隣にある山、標高3883Mのクラインマッターホルンの「マッターホルン•グレッシャー パラダイス(氷河楽園)」というところなのですが、あまりにも素晴らしい光景にただただ圧倒されるしかありません。
「死ぬほど美しい光景」、、というものを、初めて体感しました。
私のアマチュア文章力のいかなる表現を駆使しても、この光景の素晴らしさは説明のしようがありません。
そしてこの雲の中、もしくは雲を見下ろしながらスキーをする、、というシュールレアルさ。
自分というミクロな存在。
地球の反対側にあるはずの私の日常生活。
そして世界を取り巻く様々な時事も。
今、目の前に繰り広げられている素晴らしさ以外のあらゆる事柄が、無意味と化します。
ここに身を置いてみて、比喩ではなく「奇麗すぎて死にたい。死ぬかも。」と非常に直接的な感覚を思えたのですが、ここで思い浮かんだ一説。
「最高の感動」「絶頂」「極端な五感の刺激(苦楽関係なく)」と「死」というのは非常に近しい関係にあるのではないでしょうか。
例えば、メイク・ラブが気持ち良すぎると「良すぎて死ぬかと思った」とかいうじゃないですか。
他にも、「死ぬほど美味しい」とか「死ぬほど面白い」とか。
これと全く同じ表現、英語でもあるんですね。
It felt so good I thought I’d die (気持ち良い)
It is so delicious I want to die (美味しい)
It’s so funny I’m going to die (面白い)
こうやって言語をまたいで存在する概念って、結構普遍的真理を突いているのでは、、、と思うのですが。
内訳的には、
「死ぬほど」美しい
= もはや死んでも後悔ないと思うくらい美しい。
= 美しすぎて死んだと思うくらいだ(この世のものと思えない)
= 死にたいくらい美しい。だって感動しすぎて、この悶えているエネルギーのやり場所が分からないから、興奮しすぎて死んでしまいそうだ。
、、、というような心境。
今まではやや軽々しく、「死ぬほど、、」という表現を使っていましたが、本来はこういう時のためにある表現なんだな、と痛感しました。
絶大な感動と、内なる新境地をありがとうツェルマット。