馬鹿と話すとコミュニケーション能力が上がる?

 

私達社会人は「コミュニケーション能力」というと

「いかにメッセージを相手に効果的に伝えられるか」

ひいては

「どうやって自分を上手く表現するか」(上手に喋る話術、パワポに効果的な図解を盛り込む等)

ということを重視しがちのように思いますが。

 

最もコミュニケーションの前提として必要な重要な能力は、「対話相手のレベルを的確に察する」ことではないか、と最近感じています。

 

コミュニケーションは、相手と自分の中の認識レベルが合致していて初めて成立するのであって、例えば自分と違う国籍、業種、年齢、性別etc、、、の人と対話をすると、いかに私達のコミュニケーションが、前提の双方認識に依存している痛感します。

 

例えば、

 

業界用語は同業者の中でしか伝わらないし、

 

ある国の常識は他国の非常識だし、

 

女性にとって「ありえない!」ことは男性にとって「どうだっていいじゃん」です。

 

逆に言葉足らずでも、おしどり夫婦のように「阿吽の呼吸」が成り立っていれば「アレとって」でも伝わるので、コミュニケーションは美しく成立してます。

 

私もスタッフに対して、個々人に見合ったコミュニケーションを心がける必要があります。

 

 

例えば、

 

「在庫の確認お願いね」

という指示で、在庫の数の確認をしてくれるけれども、賞味期限といったその他の情報は一切確認してくれないスタッフもいれば(物流倉庫では、賞味期限が異なる同一商品があるのが常なので、足が早いものから売りに出さなければなりません。)意図とちゃんと汲み取ってくれるスタッフもいます。

 

上記の場合、コミュニケーション論的には問題は私の言葉足らずであり、指示する方として、万人に理解される表現を選ぶ必要があります。

 

 

で、思ったのは、

 

 

コミュニケーション力を上げたければ、自分より頭のいい人ではなく、自分より知識が遥かに劣る人間・頭が弱い人間とたくさん会話するといいのではないか、、ということ。

 

頭のいい人と話をしていても、新しい発想やボキャブラリーの幅、、といった面では勉強になっても、自分が言おうとしていることを相手が察してくれたり、気を使ってくれたりするので、さほど自分は「理解される」ことに頑張らなくてもいいように感じます。

 

でも、逆に自分より何も知らない人、頭の回転が遅い人と話をしていると、自分の知恵を総動員させて、相手のわかるようなベクトルで解説をしなければいけないので、非常にいいトレーニングになるのではないかと思います。

 

 

例えば、、

 

小学生に政治を説明してみるとか、

知的障害者を部下に持ってみるとか、

世代の違う老人に、インターネットを教えるとか。

 

 

 

、、、別に、仕事で何があったってわけではありませんけどね。

 

一部人間のの理解力が乏しくて色々と呆れた週だった、とは言わないけれど。

 

「自分のコミュ力向上の為の練習、、」と思うようにするとちょっと心が広くなるような気がします。

 

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